夜中に酔っ払った頭でひらめいてしまった。
特権的肉体論という概念の意味について。
良い戯曲さえあれば、俳優なんて誰でもいい。真っ直ぐ立てる俳優さえいれば。
という理念のもとに、新劇という方法論はあった。新劇の俳優訓練方法もそうであった。
少なくとも文学座は。体の作り方は徹底的に、癖をを削ぎ落とす。真っ直ぐ立つ。
つまりこんにゃく体操。野口体操である。
(読んでいないのだが)特権的肉体論とは、それに対するアンチとして、本などなくても良い。俳優の強靭な肉体さえあれば、演劇は成立する。
という理念のもとに叫ばれたものなのだと思っていた。
また、それを標榜するオリジナルはもう見ることが叶わない世代として、フォロワー劇団をいくつか見る機会があったが、それに対して私は惹かれるものはなかった。
もしかしたらそれは、俳優か、演出の、拙さがもたらすものだったのかもしれない。
オリジナルを見ていない自分には理解できない概念、として僕の頭の中に存在した。
そしてそれは、永遠の憧れみたいなものでもあった。チョウソンハ君などはそれを体現できるものなのだろうな。などとなんとなく思いながら、彼の舞台はもう20年近く追っていない。
こんなことをカタカタ書いていると、何を思いついたのか忘れてしまいそうなので
とにかくひらめいたことを文字にする。
あれは、人間の魅力のことだ。
あれとは特権的肉体、だ。
簡単に言えば、あの人のことが好きで、好きなあの人が訳のわからないことを、大声で叫んでいたら、それを一生懸命聞く。
それが特権。なのだ。(なのだろう)
お笑い芸人の、笑わせるオーラ。俳優のもつ雰囲気。とか言われるやつに近い。
つまり、見ている方が、勝手に抱いている幻想に基づく。
それは、私が舞台に上がるときに、まずは掴みのひと笑い。掴めたらそれを離さず、掴んだままもうひとわらい。あの人は面白いことをする人である。と思わせて、ストーリーを刷り込んでゆく。もちろん笑わせながら。確実に、コツコツと。小さく。時にドッと笑わせながら、ストーリーを進めてゆき、ここぞというところで、ドカンと笑わせたり、泣かせたり。する。
つまり文脈を持った状態で、お客に対峙できるよう、進めてゆく。
そのことではないのか。
有名お笑い芸人が舞台に出るとき、すでにお客と出演者の間に、何かしらの文脈が成立している。
あのひとは、面白い人である。あの人が何してくれるのか。
観客は期待している。
その状態を持てる、肉体(俳優)を、特権的肉体、というのではないか。
などと酔ってしたためた。
違うかもしれないが、これは私にとって、大きな気付きであった。
とりあえず特権的肉体論を読もう。
意味がわからないらしいが。
意味がわからなくても、あの、唐さんがいうのだ、意味を理解してみよう
という態度がすでに、特権的肉体論の信奉者になっているのではないか。
などと思う。
大抵こういうことは明日には忘れてしまう。
なのでこんなところに書き記す。
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